2007年 09月 30日
自然は変化を好まない。 |
一見、ん!と思う文・・・だろうか。
何の事を言っているのか?と思われるかもしれない。
そこで、もしこれが正しいとするならば・・・
と考えることができるかどうか?
まずここがひとつの節目。
その仮定を立てられたとして、次に
「変化を好むのは不自然なことだ」と考えるか、
もしくは、「人工物は変化するものだ」と思うか、
上のふたつはある意味同じだ。
「自然は変化を好まない」にそう反応するのは、
自然に対して必要以上のあこがれがあったりすることの表れであることが多い。
また、どうにかして自然を自分のエゴで規定したい、
という日常の思いの結果とも思える。
また、自然に対して不自然という言葉が対語として浮かぶのか、
人工物という言葉が出てくるのか、
この重層性が「日本語によって生かされている私たち」の特徴の一つでもあると思う。
「好まない」という表現に不満を感じる方もいるだろう。
自然科学の持っている歴史的厳密性の一側面を強調する事で
自分自身を保とうとしている意識があったりすると・・・。
ここ数十年、言語は物質であるという認識はだいぶ市民権を得て来た。
現在はその先に進もうとしている。
それはちょっと置いておいて、
解りやすく言えば、時間の誕生の時が生命活動開始の時なら、
宇宙の年表より、137億才の生命として「現在」を感じられるか・・・。
この感覚を持てるかどうか、この感覚に照らし合わせて物事を決められるか・・・。
これが重要だと思う。
スペシャリストやマニアにいたずらに走るのではなく、
スペシャリストの出した結果を単純な応用として他ジャンルに生かすのではなく、
スペシャリストの方法の(自分の意識との)類似点を自分の中に共有することが重要ではないのか。
自然は変化を好まない。この言葉は素直に考えれば
エネルギー保存の法則を言っているのだと理解できるだろう。
ローカルな視点では変化と見えても、
グローバルな視点では
一部の変化に対応してそのローカルな視点では見えない別の場で対変化が起きていて、
全体で自然は恒常性を保っている・・・という。
と同時にこれは常に新しい場所を常に生み出し続けているという
膨張的宇宙論の根拠の一つともなっている。
観測の限界に宇宙があるのではなく、
集合的想像力のおよぶ範囲に宇宙はあると
やや乱暴に言ってもあながち間違いとは思えない。
とすると、ここで「好まない」という文学的表現?が意味を持ってくる。
膨張による変化を好まないとするなら、
それは時間を好まないとも言い換えられる。
つまり、時間のリニアリティが疑問視されはじめる。
亜時間ともいうべき一種の「意識時間」がもっと顕在化しても良いのだろう。
何の事を言っているのか?と思われるかもしれない。
そこで、もしこれが正しいとするならば・・・
と考えることができるかどうか?
まずここがひとつの節目。
その仮定を立てられたとして、次に
「変化を好むのは不自然なことだ」と考えるか、
もしくは、「人工物は変化するものだ」と思うか、
上のふたつはある意味同じだ。
「自然は変化を好まない」にそう反応するのは、
自然に対して必要以上のあこがれがあったりすることの表れであることが多い。
また、どうにかして自然を自分のエゴで規定したい、
という日常の思いの結果とも思える。
また、自然に対して不自然という言葉が対語として浮かぶのか、
人工物という言葉が出てくるのか、
この重層性が「日本語によって生かされている私たち」の特徴の一つでもあると思う。
「好まない」という表現に不満を感じる方もいるだろう。
自然科学の持っている歴史的厳密性の一側面を強調する事で
自分自身を保とうとしている意識があったりすると・・・。
ここ数十年、言語は物質であるという認識はだいぶ市民権を得て来た。
現在はその先に進もうとしている。
それはちょっと置いておいて、
解りやすく言えば、時間の誕生の時が生命活動開始の時なら、
宇宙の年表より、137億才の生命として「現在」を感じられるか・・・。
この感覚を持てるかどうか、この感覚に照らし合わせて物事を決められるか・・・。
これが重要だと思う。
スペシャリストやマニアにいたずらに走るのではなく、
スペシャリストの出した結果を単純な応用として他ジャンルに生かすのではなく、
スペシャリストの方法の(自分の意識との)類似点を自分の中に共有することが重要ではないのか。
自然は変化を好まない。この言葉は素直に考えれば
エネルギー保存の法則を言っているのだと理解できるだろう。
ローカルな視点では変化と見えても、
グローバルな視点では
一部の変化に対応してそのローカルな視点では見えない別の場で対変化が起きていて、
全体で自然は恒常性を保っている・・・という。
と同時にこれは常に新しい場所を常に生み出し続けているという
膨張的宇宙論の根拠の一つともなっている。
観測の限界に宇宙があるのではなく、
集合的想像力のおよぶ範囲に宇宙はあると
やや乱暴に言ってもあながち間違いとは思えない。
とすると、ここで「好まない」という文学的表現?が意味を持ってくる。
膨張による変化を好まないとするなら、
それは時間を好まないとも言い換えられる。
つまり、時間のリニアリティが疑問視されはじめる。
亜時間ともいうべき一種の「意識時間」がもっと顕在化しても良いのだろう。
by interloid
| 2007-09-30 13:20
| アート