2008年 12月 27日
「胡散臭さ」は時間の関数となるのか? |
私の前のblogに近くに住む友人からコメントがあった。
12/5というのでもうずいぶんと経ってしまっている。
どうもblogを引っ越ししてから前のblogのチェックの頻度はいまいちなもので・・・。
本来ならそのコメントの場所に返答すべきなのだろうけど、
問題がよくカキコする友人の佐藤工房のblogの内容ともかぶるし、
この問題はここ30数年、幾度となくときどき浮かび上がって来た事のある話題なので、ここで書かしていただこうと思っています。
初めに、ここにコメントをいただいた小関さんも、佐藤工房さんも、近くに住む私の大事な友人達であり、また私を含め3人とも「ギャラリーみいづ」のメンバーである事をことわっておきます。
「湯の花観光交流館」については表向きの情報はお決まりのトーンなのだが、実際は「農林水産物直売所湯の花」にまだ正式に観光交流館に入ってほしいという要請はされていないのです。小関さんの言われるとおり私も「箱物行政のつけ」をこれからの世代がどう尻拭いしていくのか!それを考えると憂鬱になります。しかしこれもエントロピー増大の一側面なのでしょうか?でも私はその尻拭いに直接的には関わりたくないと思っています。
中沢新一氏については、前に少し書いたのですが、私はそれほどの思い入れはありません。たしか70年代後半からの10年ほど例の「ニュー・アカ」ブームがありましたね。
その中で中沢新一氏は一番メディアを騒がしたのかもしれませんね。
今となれば、70年代初めに松岡正剛が「遊」でその「ニュー・アカ」ブームの先鞭を付けたのだと思っています。
ただし、この「ニュー・アカ・ブームの先鞭」のような語り口は「遊」的では無いということを承知の上で・・・ですが・・・。
松岡正剛と工作舎「遊」に関しては私が岡山にいた1974〜2002の間能勢伊勢雄氏を通じていろいろと(私は会った事は無いですが)教えていただいていました。
3無主義などと言われた70年代前半の学園生活の中で、新しい「教科書」を探していた私に「遊」はまさに今の言葉でいえば「ツボ」でした。
ボーアの「相補性原理」やハイゼンベルクの「不確定性原理」などを持ち出す部分・・・・ですが、私はそこまで中沢新一氏を読んでいません、申し訳ありません。
ただ私にとっては、当時読んだハイゼンベルクの「自然科学的世界像」や「部分と全体」は相当影響を受けました。私にとってはこの2冊から松岡正剛に入って行ったと言う様な本でした。当時の松岡自然学と言われた超ジャンルの思考形態?にはそれなりの憧れもあり、とあるごとに私なりの解釈を自分の言葉でと思って、語ったり綴ったりしてきました。
今振り返れば、私自身も胡散臭いなぁと思う部分も勿論あります。
しかし、それでも書かざるをえなかった、書きたかった、書いてしまった・・・そちら側を認めようとする、その決意に加担する勇気があるかないか・・・。
そこが問題だと思っています。
「量子力学や現代数学のコトバを採り上げる必要のない部分に「無理やり」使用しているとしか思えない・・・」は「採り上げる必要のない部分」の決定に「権威主義的な意識が関与しがちだという自分」に出会った後の事なのかどうか?が問題だと思っています。採り上げ方の文章の拙さの指摘は大歓迎なのですが・・・、取り上げる必要がなぜあるのか、取り上げる必要があると仮定する立場はとれないのか、と考える事も可能ではないのかと思っています。
「胡散臭さ」は時代が解消するのかどうか?
そのような問いの方が私には面白いと思います。
佐藤さんの見方といい、「ギャラリーみいづ」には面白い人が集まって来ています。
追伸、
明日12/28から名古屋です、たぶん年明け3、4日あたりまで
12/5というのでもうずいぶんと経ってしまっている。
どうもblogを引っ越ししてから前のblogのチェックの頻度はいまいちなもので・・・。
本来ならそのコメントの場所に返答すべきなのだろうけど、
問題がよくカキコする友人の佐藤工房のblogの内容ともかぶるし、
この問題はここ30数年、幾度となくときどき浮かび上がって来た事のある話題なので、ここで書かしていただこうと思っています。
初めに、ここにコメントをいただいた小関さんも、佐藤工房さんも、近くに住む私の大事な友人達であり、また私を含め3人とも「ギャラリーみいづ」のメンバーである事をことわっておきます。
「湯の花観光交流館」については表向きの情報はお決まりのトーンなのだが、実際は「農林水産物直売所湯の花」にまだ正式に観光交流館に入ってほしいという要請はされていないのです。小関さんの言われるとおり私も「箱物行政のつけ」をこれからの世代がどう尻拭いしていくのか!それを考えると憂鬱になります。しかしこれもエントロピー増大の一側面なのでしょうか?でも私はその尻拭いに直接的には関わりたくないと思っています。
中沢新一氏については、前に少し書いたのですが、私はそれほどの思い入れはありません。たしか70年代後半からの10年ほど例の「ニュー・アカ」ブームがありましたね。
その中で中沢新一氏は一番メディアを騒がしたのかもしれませんね。
今となれば、70年代初めに松岡正剛が「遊」でその「ニュー・アカ」ブームの先鞭を付けたのだと思っています。
ただし、この「ニュー・アカ・ブームの先鞭」のような語り口は「遊」的では無いということを承知の上で・・・ですが・・・。
松岡正剛と工作舎「遊」に関しては私が岡山にいた1974〜2002の間能勢伊勢雄氏を通じていろいろと(私は会った事は無いですが)教えていただいていました。
3無主義などと言われた70年代前半の学園生活の中で、新しい「教科書」を探していた私に「遊」はまさに今の言葉でいえば「ツボ」でした。
ボーアの「相補性原理」やハイゼンベルクの「不確定性原理」などを持ち出す部分・・・・ですが、私はそこまで中沢新一氏を読んでいません、申し訳ありません。
ただ私にとっては、当時読んだハイゼンベルクの「自然科学的世界像」や「部分と全体」は相当影響を受けました。私にとってはこの2冊から松岡正剛に入って行ったと言う様な本でした。当時の松岡自然学と言われた超ジャンルの思考形態?にはそれなりの憧れもあり、とあるごとに私なりの解釈を自分の言葉でと思って、語ったり綴ったりしてきました。
今振り返れば、私自身も胡散臭いなぁと思う部分も勿論あります。
しかし、それでも書かざるをえなかった、書きたかった、書いてしまった・・・そちら側を認めようとする、その決意に加担する勇気があるかないか・・・。
そこが問題だと思っています。
「量子力学や現代数学のコトバを採り上げる必要のない部分に「無理やり」使用しているとしか思えない・・・」は「採り上げる必要のない部分」の決定に「権威主義的な意識が関与しがちだという自分」に出会った後の事なのかどうか?が問題だと思っています。採り上げ方の文章の拙さの指摘は大歓迎なのですが・・・、取り上げる必要がなぜあるのか、取り上げる必要があると仮定する立場はとれないのか、と考える事も可能ではないのかと思っています。
「胡散臭さ」は時代が解消するのかどうか?
そのような問いの方が私には面白いと思います。
佐藤さんの見方といい、「ギャラリーみいづ」には面白い人が集まって来ています。
追伸、
明日12/28から名古屋です、たぶん年明け3、4日あたりまで
by interloid
| 2008-12-27 22:01
| diary