2007年 07月 04日
日本密教と国家神道 |
自らの「血」に眠る物が体現したものの一つとしてのフォークソング。
この意味合いにおいて、総ての音楽はフォークソング的資質を備えている。
今まで、仏教系事物より神道系事物のほうがより日本らしいと思ってきた。
でも、それも一つの刷り込みにすぎないのではないか?と思われてきた。
松岡正剛の千夜千冊遊蕩編 村上重良「国家神道」岩波新書 1970
より、
「・・・神仏習合の促進のなか、神社が仏教理論を借りたのだ。これこそが「神道」なのである。・・・」
「・・・(明治憲法と国家神道がもつ擬似合理性を、最も強いかたちで体現した教育勅語によって)古来の神祇感覚とはかなり異なった『惟神の大道』が、資本主義国家の国体として顕示されたのだ・・・」
などなど、
共同体の祭祀を、宗教の歴史的発達史の一段階としてとらえるのではなく、
かつてDEVOが歌ったように、
それを我々が退化して忘れてしまった感覚の再生へのヒントとすること。
そして、常に感覚と論理(言語、言葉)を同時にターゲットとすること。
そんなことを、思わせる文章でした。
この意味合いにおいて、総ての音楽はフォークソング的資質を備えている。
今まで、仏教系事物より神道系事物のほうがより日本らしいと思ってきた。
でも、それも一つの刷り込みにすぎないのではないか?と思われてきた。
松岡正剛の千夜千冊遊蕩編 村上重良「国家神道」岩波新書 1970
より、
「・・・神仏習合の促進のなか、神社が仏教理論を借りたのだ。これこそが「神道」なのである。・・・」
「・・・(明治憲法と国家神道がもつ擬似合理性を、最も強いかたちで体現した教育勅語によって)古来の神祇感覚とはかなり異なった『惟神の大道』が、資本主義国家の国体として顕示されたのだ・・・」
などなど、
共同体の祭祀を、宗教の歴史的発達史の一段階としてとらえるのではなく、
かつてDEVOが歌ったように、
それを我々が退化して忘れてしまった感覚の再生へのヒントとすること。
そして、常に感覚と論理(言語、言葉)を同時にターゲットとすること。
そんなことを、思わせる文章でした。
by interloid
| 2007-07-04 12:06
| diary