2007年 07月 21日
出ている音と聴こえている音 |
楽器全般にも言える事だが、ギターという楽器も出ている音(観客に聴こえている音)と演奏者が聴いている音はあきらかに違う。
ノンPAでの話でだ。
この問題が今まで話題にあがらない事の不思議さをどうとらえるのか・・・。
そこで浮かび上がってくるのが「サイケデリック感」を醸し出すものとは何か?
という命題だと思う。
灰野敬二はディレイが嫌いで、リバーブマニアだ。
ディレイをエフェクトの範疇から楽曲の重要な構成要素までに最初に拡張したのがピンク・フロイドだ。
デジリバの普及とバブルは同期している。
The Dog Star Risingのレコーディングで気をつけたことは、
楽器から出ている音ではなく、私に演奏中に聴こえている音を記録する事だった。
セルフエンジニアリングの技術的な部分については、
後に、とあるレコーディングエンジニアの方に
「楽器以外のものが鳴っている・・・」
と指摘されたような状況だった。
しかし、そのようなレコーディング環境や機材の問題ではなく
目の前で聴いている人と演奏している人間と
その二人でさえ聴こえている音が違うという現実に納得がいかなかった。
この問題はクラシッック系ギターと一緒に考える必要がある。
クラシッック系ではノンPAでいかに会場全体を共鳴体とするか、という前提の元に演奏がされる。
教会のパイプオルガンの手法が前提なのだ。
クラシッックギターの場合、演奏者は極力体に楽器が触れる面積が少なくなり楽器が中空で浮いているような構え方(点でギターを支える)を理想とする。
そうすることによって、ギターのサウンドホールだけではなく、ボディー全体から発せられる音を効率的に(会場全体を共鳴体とする為に)使おうとする。
ところが、クラシッック系意外ではほとんどの場合、ギターの側面とバックは面で身体に接している。(クラシッック系ではギターの側面とバックとの角で楽器を支える)
ここからギターの音の低域成分が演奏者の体を伝わる。
したがって、演奏者は目の前にいる観客より、より低域を感じながら演奏している。
もう一つは音の直進性の問題。
上に書いたようにギターの音は、楽器前面のサウンドホールからのみではなく
楽器全体から発せられる。
したがって、演奏者はサウンドホールからの音と、ボディから身体を通して伝わった音をミックスして聴いて、それに反応して次の音を出している。
しかし、音量(レベル)の大部分と高音域の大部分はサウンドホールから出てくる。
ところが、演奏者の耳はサウンドホールより後ろにあるため、
正面で聴いている観客とは違った音を聴いている。
音には周波数(音の高さ)によって進み方(響き方)に違いがある。
高い音ほど直進性が強い。
言い換えれば、低い音ほど回り込みが強い。(スピーカーの裏側では音がモコモコしている・・・)
だから、演奏者と観客では楽器の音が違うのだ。
同じにしたければ会場自体をアコースティックな楽器とするクラシック的アプローチをとるしかない。
ただそれはノンPAでやればよい、というような単純な事で片付く問題ではない。
演奏者は常に自分の出した音とその響いて行き方を注意深く聴いていなければならない。
演奏者は演奏中自分の出した音を検証しながら次の音を出す、という意識を持っていなければならない。
常に直前に自分の出した音の響いていき方に反応して、次に出す音を決定しなければならない。
したがって、AO円筒という身体そのものを共鳴体とする「声」を使うには、
音のセンサーである耳が隣接しているため、ある意味ハイパー分裂症的意識状態が要求される。
逆にシンセやサンプラーとミキサーやフィルターをステージ上で操る現代のトランス、エレクトロニカのクリエーターやDJ達の方が身体で発音しない分、自分の音が聴きやすく、それにすぐに反応しやすい。
阿木譲もかつてヒューマン・リーグについて「エレクトロニクスを使用するアーティストはなぜこうも暖かい人間性をいつも歌いあげるのだろうか」と書いていた。
嘗て篠山紀信だったか細江英公だったかアラーキーだったかの言葉で「目がカメラになったらいいのに・・・」というのがあったが、それと似た意味で「耳がマイクになれば良いのに・・・」と思っていた。
「トーンが総て!」はここ数年の流行言葉だ。
勿論私もそう思う。
しかし、もう一歩踏み込んで言えば「響き方が総て」だと思う。
従って教会建築を基礎においたクラシッック系の「響かせ方」「響き方」
ではない「現代の響き方」を皆が求めているのではないのかと思う。
極論すれば、出ている音は何でもいいのだ。
その音がどう響いてゆくか?それが重要なのだ。
その響き方がサイケデリック感であり、
ビッグ・バンで振動が生まれた時から、
そのような「音の響き方」「振動の伝搬の様子」を
常に保とうとする意思が働いているのではないのだろうか。
ジャックスを率いた早川義夫は(92年の復活ライヴの楽屋でのインタビューで)「結局最後は言葉じゃないんだよね・・・」と答え、
同じジャックスのメンバーを率い「休みの国」と名乗った高橋KAIZOKU照幸は
「踊れなけりゃ音楽じゃない・・・」とまで言う。
僕らが欲しているのは現在「音楽」と呼ばれるものではなく。
心地よい「振動」なのではないのかと思う。
ただその「振動」を捉える感覚が(かつてDEVOが示したように)退化してしまったのかもしれない。
その文脈で90年代ブレイクしたイート・スタティックもそうゆう意識の元に聴かれたら・・・と思っている。
いや、「そうゆう意識」と言語化しようとしたりする前に、(若いってことはそれだけで正しい・・・とジョン・レノンが言ったように・・・)若い世代は意識化以前の前提の身体感覚として音をセレクトしているのだと思う。
ノンPAでの話でだ。
この問題が今まで話題にあがらない事の不思議さをどうとらえるのか・・・。
そこで浮かび上がってくるのが「サイケデリック感」を醸し出すものとは何か?
という命題だと思う。
灰野敬二はディレイが嫌いで、リバーブマニアだ。
ディレイをエフェクトの範疇から楽曲の重要な構成要素までに最初に拡張したのがピンク・フロイドだ。
デジリバの普及とバブルは同期している。
The Dog Star Risingのレコーディングで気をつけたことは、
楽器から出ている音ではなく、私に演奏中に聴こえている音を記録する事だった。
セルフエンジニアリングの技術的な部分については、
後に、とあるレコーディングエンジニアの方に
「楽器以外のものが鳴っている・・・」
と指摘されたような状況だった。
しかし、そのようなレコーディング環境や機材の問題ではなく
目の前で聴いている人と演奏している人間と
その二人でさえ聴こえている音が違うという現実に納得がいかなかった。
この問題はクラシッック系ギターと一緒に考える必要がある。
クラシッック系ではノンPAでいかに会場全体を共鳴体とするか、という前提の元に演奏がされる。
教会のパイプオルガンの手法が前提なのだ。
クラシッックギターの場合、演奏者は極力体に楽器が触れる面積が少なくなり楽器が中空で浮いているような構え方(点でギターを支える)を理想とする。
そうすることによって、ギターのサウンドホールだけではなく、ボディー全体から発せられる音を効率的に(会場全体を共鳴体とする為に)使おうとする。
ところが、クラシッック系意外ではほとんどの場合、ギターの側面とバックは面で身体に接している。(クラシッック系ではギターの側面とバックとの角で楽器を支える)
ここからギターの音の低域成分が演奏者の体を伝わる。
したがって、演奏者は目の前にいる観客より、より低域を感じながら演奏している。
もう一つは音の直進性の問題。
上に書いたようにギターの音は、楽器前面のサウンドホールからのみではなく
楽器全体から発せられる。
したがって、演奏者はサウンドホールからの音と、ボディから身体を通して伝わった音をミックスして聴いて、それに反応して次の音を出している。
しかし、音量(レベル)の大部分と高音域の大部分はサウンドホールから出てくる。
ところが、演奏者の耳はサウンドホールより後ろにあるため、
正面で聴いている観客とは違った音を聴いている。
音には周波数(音の高さ)によって進み方(響き方)に違いがある。
高い音ほど直進性が強い。
言い換えれば、低い音ほど回り込みが強い。(スピーカーの裏側では音がモコモコしている・・・)
だから、演奏者と観客では楽器の音が違うのだ。
同じにしたければ会場自体をアコースティックな楽器とするクラシック的アプローチをとるしかない。
ただそれはノンPAでやればよい、というような単純な事で片付く問題ではない。
演奏者は常に自分の出した音とその響いて行き方を注意深く聴いていなければならない。
演奏者は演奏中自分の出した音を検証しながら次の音を出す、という意識を持っていなければならない。
常に直前に自分の出した音の響いていき方に反応して、次に出す音を決定しなければならない。
したがって、AO円筒という身体そのものを共鳴体とする「声」を使うには、
音のセンサーである耳が隣接しているため、ある意味ハイパー分裂症的意識状態が要求される。
逆にシンセやサンプラーとミキサーやフィルターをステージ上で操る現代のトランス、エレクトロニカのクリエーターやDJ達の方が身体で発音しない分、自分の音が聴きやすく、それにすぐに反応しやすい。
阿木譲もかつてヒューマン・リーグについて「エレクトロニクスを使用するアーティストはなぜこうも暖かい人間性をいつも歌いあげるのだろうか」と書いていた。
嘗て篠山紀信だったか細江英公だったかアラーキーだったかの言葉で「目がカメラになったらいいのに・・・」というのがあったが、それと似た意味で「耳がマイクになれば良いのに・・・」と思っていた。
「トーンが総て!」はここ数年の流行言葉だ。
勿論私もそう思う。
しかし、もう一歩踏み込んで言えば「響き方が総て」だと思う。
従って教会建築を基礎においたクラシッック系の「響かせ方」「響き方」
ではない「現代の響き方」を皆が求めているのではないのかと思う。
極論すれば、出ている音は何でもいいのだ。
その音がどう響いてゆくか?それが重要なのだ。
その響き方がサイケデリック感であり、
ビッグ・バンで振動が生まれた時から、
そのような「音の響き方」「振動の伝搬の様子」を
常に保とうとする意思が働いているのではないのだろうか。
ジャックスを率いた早川義夫は(92年の復活ライヴの楽屋でのインタビューで)「結局最後は言葉じゃないんだよね・・・」と答え、
同じジャックスのメンバーを率い「休みの国」と名乗った高橋KAIZOKU照幸は
「踊れなけりゃ音楽じゃない・・・」とまで言う。
僕らが欲しているのは現在「音楽」と呼ばれるものではなく。
心地よい「振動」なのではないのかと思う。
ただその「振動」を捉える感覚が(かつてDEVOが示したように)退化してしまったのかもしれない。
その文脈で90年代ブレイクしたイート・スタティックもそうゆう意識の元に聴かれたら・・・と思っている。
いや、「そうゆう意識」と言語化しようとしたりする前に、(若いってことはそれだけで正しい・・・とジョン・レノンが言ったように・・・)若い世代は意識化以前の前提の身体感覚として音をセレクトしているのだと思う。
by interloid
| 2007-07-21 07:19
| 音楽