2007年 09月 22日
海水準変動と黒曜石 |
われわれはどこから来てどこへ行こうとしているのか?
勿論ここでの「どこ」は4次元座標であると同時に人類の意識状態だ。
そして、その4次元座標と意識状態はとあるパラメーターで結びついている。
俗な表現では身体と精神とでも言おうか・・・。
で、その「身体」のほうだが・・・
アフリカに生まれた人類が、約5万年前頃スンダランドの海岸地域から黒潮に乗り
ヴュルム氷期で現在より100mほど海面の下がっているUR(ウル)日本に「不定形剥片石器文化」を持ちこんだ。
その最終氷期の終わり頃、旧石器時代の磨製石斧は3~4万年前に集中して日本で発掘されているという。
これは・・・現在「世界最古」の磨製石斧であり、さらにこの磨製技術は日本で独自に発明された可能性もある・・・という。
その時代伊豆半島は神子元島と地続きで、また伊豆諸島には現在の利島、新島、式根島、神津島、恩馳島(オンバセジマ)が一体となった古伊豆島があったという。(「大般若原蜜多経と石門寺」杉野俤二、「列島の古代文化と伊豆七島」橋口尚武 黒潮の道 小学館 海と列島文化第7巻より)
これは「伊豆半島東方海域の海底地形・地質構造」より推測できる。
この時代、伊豆半島と「古伊豆島」は30kmほどの海峡であり、
この海峡を渡って現在の神津島の黒曜石が本州に運ばれたという。
海水準変動が伊豆の成り立ちに与えた影響はもっと注目されても良いのではないかと思う。
石廊崎と下田須崎半島と神子元島を結ぶ地域がヴュルム氷期には陸地だった。
この1辺が10k強ほどの3角地帯に後期旧石器時代の遺物が眠っている?!。
時代は下り縄文時代前期。
約6,000年前にピークを迎えた縄文海進により、
当時は海面が今より3~5メートル高かった。
これが貝塚が現在の丘陵部で発掘される事に繋がっている。
また古墳時代を中心とする祭祀遺跡、製鉄(たたら)遺跡が
この伊豆半島南東部に集中しているのも
旧石器時代の神子元島までの陸地(神子元平野)に関係するのではないか?
そこに重要な人物(三島大明神?)がいたとしてもおかしくはない。
三宅記の「島焼き」もこの海水準変動と合わせて考えるべきなのではないか・・・。
縄文海進が終わり現在の汀線に近づく間、
平地の湿潤地で稲作が始まる。
その後8世紀から12世紀にかけてのロットネスト海進=平安海進期(オホーツク海進期;8~10 世 紀)により再び海面は3〜5m上昇した
奥行き2k強、幅1.6k強ほどの鯉名の大湊ができる。
この大湊の奥に平城京二条大路木簡に記された蒲谷の御厨があった。
その他に弥生海進気(B.C.600 ~紀元前後),古墳末海進期(6 世紀前 後)と高 海水準期 の存在とその間の寒冷期が確認されているらしい。
「縄文の人々と日本人の起源」
「第四紀と気候変動」
「膨らむ地球」
「ヒトと環境変遷」
フレート・テクニクスによる複雑な地形の日本列島近辺は
海水準変動による汀線の移動の複雑化も伴い
人々の生活にも予想以上の影響を及ぼしてきたのではないか?・・・。
石造としては、現存する当時の姿をそのまま残している日本最古の灯台である神子元島灯台の初点灯に三条実美、大久保利通、大隈重信ら明治の元勲と英国公使ハリー・パークスが来島し立ち会っているのも、単にこの海域が暗礁の続く海路の難所であったためだけではなかったのではないか?
下田須崎の御用邸も元佐賀藩鍋島家の別荘も役行者伝説も同じく・・・。
単に地域の歴史遺跡を観光資源として活用しようというのではなく、
せめて人類史(本来は地球史、宇宙史)の中での地域の歴史遺跡の位置づけがなされないかぎり、若い世代へ向けての「未来の情報」とはならないのではないか?
勿論ここでの「どこ」は4次元座標であると同時に人類の意識状態だ。
そして、その4次元座標と意識状態はとあるパラメーターで結びついている。
俗な表現では身体と精神とでも言おうか・・・。
で、その「身体」のほうだが・・・
アフリカに生まれた人類が、約5万年前頃スンダランドの海岸地域から黒潮に乗り
ヴュルム氷期で現在より100mほど海面の下がっているUR(ウル)日本に「不定形剥片石器文化」を持ちこんだ。
その最終氷期の終わり頃、旧石器時代の磨製石斧は3~4万年前に集中して日本で発掘されているという。
これは・・・現在「世界最古」の磨製石斧であり、さらにこの磨製技術は日本で独自に発明された可能性もある・・・という。
その時代伊豆半島は神子元島と地続きで、また伊豆諸島には現在の利島、新島、式根島、神津島、恩馳島(オンバセジマ)が一体となった古伊豆島があったという。(「大般若原蜜多経と石門寺」杉野俤二、「列島の古代文化と伊豆七島」橋口尚武 黒潮の道 小学館 海と列島文化第7巻より)
これは「伊豆半島東方海域の海底地形・地質構造」より推測できる。
この時代、伊豆半島と「古伊豆島」は30kmほどの海峡であり、
この海峡を渡って現在の神津島の黒曜石が本州に運ばれたという。
海水準変動が伊豆の成り立ちに与えた影響はもっと注目されても良いのではないかと思う。
石廊崎と下田須崎半島と神子元島を結ぶ地域がヴュルム氷期には陸地だった。
この1辺が10k強ほどの3角地帯に後期旧石器時代の遺物が眠っている?!。
時代は下り縄文時代前期。
約6,000年前にピークを迎えた縄文海進により、
当時は海面が今より3~5メートル高かった。
これが貝塚が現在の丘陵部で発掘される事に繋がっている。
また古墳時代を中心とする祭祀遺跡、製鉄(たたら)遺跡が
この伊豆半島南東部に集中しているのも
旧石器時代の神子元島までの陸地(神子元平野)に関係するのではないか?
そこに重要な人物(三島大明神?)がいたとしてもおかしくはない。
三宅記の「島焼き」もこの海水準変動と合わせて考えるべきなのではないか・・・。
縄文海進が終わり現在の汀線に近づく間、
平地の湿潤地で稲作が始まる。
その後8世紀から12世紀にかけてのロットネスト海進=平安海進期(オホーツク海進期;8~10 世 紀)により再び海面は3〜5m上昇した
奥行き2k強、幅1.6k強ほどの鯉名の大湊ができる。
この大湊の奥に平城京二条大路木簡に記された蒲谷の御厨があった。
その他に弥生海進気(B.C.600 ~紀元前後),古墳末海進期(6 世紀前 後)と高 海水準期 の存在とその間の寒冷期が確認されているらしい。
「縄文の人々と日本人の起源」
「第四紀と気候変動」
「膨らむ地球」
「ヒトと環境変遷」
フレート・テクニクスによる複雑な地形の日本列島近辺は
海水準変動による汀線の移動の複雑化も伴い
人々の生活にも予想以上の影響を及ぼしてきたのではないか?・・・。
石造としては、現存する当時の姿をそのまま残している日本最古の灯台である神子元島灯台の初点灯に三条実美、大久保利通、大隈重信ら明治の元勲と英国公使ハリー・パークスが来島し立ち会っているのも、単にこの海域が暗礁の続く海路の難所であったためだけではなかったのではないか?
下田須崎の御用邸も元佐賀藩鍋島家の別荘も役行者伝説も同じく・・・。
単に地域の歴史遺跡を観光資源として活用しようというのではなく、
せめて人類史(本来は地球史、宇宙史)の中での地域の歴史遺跡の位置づけがなされないかぎり、若い世代へ向けての「未来の情報」とはならないのではないか?
by interloid
| 2007-09-22 23:55
| 伊豆