2007年 12月 18日
ライプニッツ、クリシュナ・ムーティー、チャールズ・パース |
参照や脚注とリンクの意味合いの違いは、その使われるメディアの違いという単純さを超えている。それは人工生命へ向けての実験でもあり、地球上のネットワークをガイアの神経網とする、新たな思考形態を持った地球生命体への一歩とも言える。
「関係性の中に総てがある」という言葉は、オリジナリティや作品という縛りからの解放と同義であり、トラッドな作家性からアーティストへの、芸術からアートへの第一歩だった。中国の諺にもあるように、先人の跡を辿るとは、先人に習うとは、先人のその記号化、情報化の方法を現在に生かす事だろう。
松岡正剛については色々な人が書いているけど、ネット上に千夜千冊へのリンクを張っているサイトが少ないのはなぜなのだろうか?・・・。月間150万アクセスというサイトなのに。ただ私が知らないだけだろうか?。
文章と情報の違いの明確な意識化が意味を持ってくる。30数年前吉田拓郎が「見出し人間の群れ・・・」と揶揄した成れの果てが、現在の情報化社会と定義されているものではないのか?インターネットが普及し、ディスプレイの前にいる時間が長くなれば長くなるほど、人と出会う為に移動する事が多くなると10年近く前に言っていたのは高城剛だっただろうか・・・。
千夜千冊のウィルヘルム・ライプニッツ『ライプニッツ著作集』(全10巻)の中で以下の文章に出会った
・・・このライプニッツの「方法の知」は、1937年に著された下村寅太郎の『ライプニッツ』(現在はみすず書房で刊行中)では、「それは一つの領域ではなく世界の、ある存在ではなくすべての、存在の原理の探求なのである」と書かれている。・・・
そこで思い出したのは能勢伊勢雄氏の映画「共同性の地平を求めて」だった。その映画のポスターにはJ.クリシュナ・ムーティーの言葉「瞑想とは、何かをその一部だけではなく完全な注意をはらって見つめる心の状態である。」が象徴的にデザインされていた。
この2つの言葉は、あるレイヤーでシンクロしている。そのレイヤーを特定する過程で解ってくる事柄がこれから注目されるのではないだろうか。どんな対象についてでも、「総ての」とか「完全な」とか言える状態とは、個人の能力や特性を根拠にしたものではないだろう。そこで浮かび上がるのが、「関係性」というローカルな時空と量子力学的な宇宙の「場」との間を取り持つパラメーターの設定ではないだろうか?。
言語や快感が脳内で物質として特定されているなら、会話の雰囲気や場所の空気感が方程式で表されてもおかしくはない。
同じく千夜千冊のチャールズ・パース パース著作集(全3冊)では
・・・パースにとっては【意識とは推論そのものなのである】・・・
・・・『連続性の哲学』には「類似による連合」についての天才的な記述がいくつか含まれている。【類似性とは観念の連合がつくるものだ】という洞察だ。パースはそこから【すべからく「価値」とは類似性を発見すること以外のなにものでもないのではないか】ということを暗示した。【これは「問題の急所」はつねにアナロジーこそが占めている】という、とんでもない指摘なのである。・・・
これから、「似ていさえすれば何でも良いのだ!」とつい言ってしまいたくなるのを止まる事の重要性を、自らに課せ過ぎない事。(解りにくい言い回しだなぁ・・・)
「経済は類似性で成り立っている」と言い換える所で止めておくのが(原典に立ち会っていない者には)良い事なのかもしれない。
「関係性の中に総てがある」という言葉は、オリジナリティや作品という縛りからの解放と同義であり、トラッドな作家性からアーティストへの、芸術からアートへの第一歩だった。中国の諺にもあるように、先人の跡を辿るとは、先人に習うとは、先人のその記号化、情報化の方法を現在に生かす事だろう。
松岡正剛については色々な人が書いているけど、ネット上に千夜千冊へのリンクを張っているサイトが少ないのはなぜなのだろうか?・・・。月間150万アクセスというサイトなのに。ただ私が知らないだけだろうか?。
文章と情報の違いの明確な意識化が意味を持ってくる。30数年前吉田拓郎が「見出し人間の群れ・・・」と揶揄した成れの果てが、現在の情報化社会と定義されているものではないのか?インターネットが普及し、ディスプレイの前にいる時間が長くなれば長くなるほど、人と出会う為に移動する事が多くなると10年近く前に言っていたのは高城剛だっただろうか・・・。
千夜千冊のウィルヘルム・ライプニッツ『ライプニッツ著作集』(全10巻)の中で以下の文章に出会った
・・・このライプニッツの「方法の知」は、1937年に著された下村寅太郎の『ライプニッツ』(現在はみすず書房で刊行中)では、「それは一つの領域ではなく世界の、ある存在ではなくすべての、存在の原理の探求なのである」と書かれている。・・・
そこで思い出したのは能勢伊勢雄氏の映画「共同性の地平を求めて」だった。その映画のポスターにはJ.クリシュナ・ムーティーの言葉「瞑想とは、何かをその一部だけではなく完全な注意をはらって見つめる心の状態である。」が象徴的にデザインされていた。
この2つの言葉は、あるレイヤーでシンクロしている。そのレイヤーを特定する過程で解ってくる事柄がこれから注目されるのではないだろうか。どんな対象についてでも、「総ての」とか「完全な」とか言える状態とは、個人の能力や特性を根拠にしたものではないだろう。そこで浮かび上がるのが、「関係性」というローカルな時空と量子力学的な宇宙の「場」との間を取り持つパラメーターの設定ではないだろうか?。
言語や快感が脳内で物質として特定されているなら、会話の雰囲気や場所の空気感が方程式で表されてもおかしくはない。
同じく千夜千冊のチャールズ・パース パース著作集(全3冊)では
・・・パースにとっては【意識とは推論そのものなのである】・・・
・・・『連続性の哲学』には「類似による連合」についての天才的な記述がいくつか含まれている。【類似性とは観念の連合がつくるものだ】という洞察だ。パースはそこから【すべからく「価値」とは類似性を発見すること以外のなにものでもないのではないか】ということを暗示した。【これは「問題の急所」はつねにアナロジーこそが占めている】という、とんでもない指摘なのである。・・・
これから、「似ていさえすれば何でも良いのだ!」とつい言ってしまいたくなるのを止まる事の重要性を、自らに課せ過ぎない事。(解りにくい言い回しだなぁ・・・)
「経済は類似性で成り立っている」と言い換える所で止めておくのが(原典に立ち会っていない者には)良い事なのかもしれない。
by interloid
| 2007-12-18 00:34
| アート