2008年 11月 29日
”田牛タライ”半島と神奈備信仰 |
1年ほど前に作ったフライヤー、むかしむかし、今より海面が100m低かった頃・・・
この時は「日詰遺跡の会」関連で作ったのだが、本来は伊豆という地域の理解に、地方自治体の境や、専門化分業化された業種、ジャンルの壁が邪魔をしているという思いで企画したものだった。地方自治体やその教育委員会レベルではそのような企画が通るわけもなく、近所の数人の識者の方の同意は得たもののそのままになっていた。
ヴュルム氷期=最終氷期に日本列島は大陸と繋がっていて、朝鮮半島との陸橋を通って動物が移動し、山だった対馬や壱岐はその後の海水準変動で島となった。
この海水準変動が大陸棚と海成段丘を作り、それで形成された地形に(主に)人類が住み着いたのだ。いわゆる海と河のウオーターフロントと呼ばれる地域だ。
「今より海面が100m低かった頃」は、伊豆諸島と伊豆半島の間はほぼ30Kmほどの海峡だった、そんな距離だったから神津島の良質な黒曜石が、当時の船舶技術でも大量に本州に運ぶ事ができたという。
その後の海水準変動、縄文海進で波打ち際が現在の海抜5mになったと仮定した海岸線のラインも、先に上げたのフライヤーには示してある。
フライヤーをクリックして拡大すると解りやすいと思う。
現在の川幅を拡幅したように見える濃い青色の地域までが海だったのだ。
とすると青野川と大賀茂川は深い入り江を作り、その両側に広がる現在の宅地や休耕田は遠浅で貝類の豊富な湾となる。そして現在のタライ岬は下田の須崎半島と同じぐらいのサイズの半島となる。そしてその半島の付け根に三倉(御座、御蔵、神倉、神座、神壇)山がある。写真中央が大和の三輪山に似た三倉山。
大国主ノ命の和魂(ニギミタマ=平和的な神のはたらき)のよりついた神奈備(神の籠る山)信仰の源。全国に残る賀茂(加茂、鴨)族の足跡。
となると青野川と大賀茂川の作った深い入り江を、当時西国からの人々が船で入ってくると三倉山はかっこうのランドマークとなる。昭和初期に大場磐雄が「神道考古学」を提唱するきっかけになったフィールドワークの地である洗田遺跡。そこから崇められた神奈備信仰の御神体(磐座?三倉山)は、元々はそのようなランドマークだったのだ。
写真は青野川支流の子稲川流域の宅地開発が進む休耕田、青市と日野(ヒンノ)の間、 野辺と呼ばれるあたり から撮影した三倉山
4枚の写真とも撮影場所は同じ。
「子稲の大湊」と呼ばれた”田牛タライ”半島の西側の湾を小さな船で入って来た時の視線を意識して撮影した。カメラ位置の海抜がほぼ当時の海面と考えられる。
2008/11/14 09:11撮影
同じ様に現在の下田市吉佐美大賀茂川流域からも撮影を予定している。
この時は「日詰遺跡の会」関連で作ったのだが、本来は伊豆という地域の理解に、地方自治体の境や、専門化分業化された業種、ジャンルの壁が邪魔をしているという思いで企画したものだった。地方自治体やその教育委員会レベルではそのような企画が通るわけもなく、近所の数人の識者の方の同意は得たもののそのままになっていた。
ヴュルム氷期=最終氷期に日本列島は大陸と繋がっていて、朝鮮半島との陸橋を通って動物が移動し、山だった対馬や壱岐はその後の海水準変動で島となった。
この海水準変動が大陸棚と海成段丘を作り、それで形成された地形に(主に)人類が住み着いたのだ。いわゆる海と河のウオーターフロントと呼ばれる地域だ。
「今より海面が100m低かった頃」は、伊豆諸島と伊豆半島の間はほぼ30Kmほどの海峡だった、そんな距離だったから神津島の良質な黒曜石が、当時の船舶技術でも大量に本州に運ぶ事ができたという。
その後の海水準変動、縄文海進で波打ち際が現在の海抜5mになったと仮定した海岸線のラインも、先に上げたのフライヤーには示してある。
フライヤーをクリックして拡大すると解りやすいと思う。
現在の川幅を拡幅したように見える濃い青色の地域までが海だったのだ。
とすると青野川と大賀茂川は深い入り江を作り、その両側に広がる現在の宅地や休耕田は遠浅で貝類の豊富な湾となる。そして現在のタライ岬は下田の須崎半島と同じぐらいのサイズの半島となる。そしてその半島の付け根に三倉(御座、御蔵、神倉、神座、神壇)山がある。写真中央が大和の三輪山に似た三倉山。
大国主ノ命の和魂(ニギミタマ=平和的な神のはたらき)のよりついた神奈備(神の籠る山)信仰の源。全国に残る賀茂(加茂、鴨)族の足跡。
となると青野川と大賀茂川の作った深い入り江を、当時西国からの人々が船で入ってくると三倉山はかっこうのランドマークとなる。昭和初期に大場磐雄が「神道考古学」を提唱するきっかけになったフィールドワークの地である洗田遺跡。そこから崇められた神奈備信仰の御神体(磐座?三倉山)は、元々はそのようなランドマークだったのだ。
写真は青野川支流の子稲川流域の宅地開発が進む休耕田、青市と日野(ヒンノ)の間、 野辺と呼ばれるあたり から撮影した三倉山
4枚の写真とも撮影場所は同じ。
「子稲の大湊」と呼ばれた”田牛タライ”半島の西側の湾を小さな船で入って来た時の視線を意識して撮影した。カメラ位置の海抜がほぼ当時の海面と考えられる。
2008/11/14 09:11撮影
同じ様に現在の下田市吉佐美大賀茂川流域からも撮影を予定している。
by interloid
| 2008-11-29 09:55
| 伊豆